陶芸にたずさわってきた中で私自身がおもしろいと思った事や 心にとまった事 それはおそらく私の制作にも影響を及ぼしている と思われるお話を書き綴っていこうと思います。
日本的なもの No1 いわゆる伝統的な焼き物として多くの陶磁器が日本中で造られています。 色々な手法を用い色々な姿形の作品や商品が大昔から造られてきました。 僕は多くの知識を持つ訳ではないのでそれほど詳しい事がいえるわけでは ありませんが日本の伝統に根付いた物の中でもとくによく耳にする焼き物の中には 16世紀の朝鮮出兵の際、日本に連行された陶工が始祖である場合があります。 (例をあげますと有田焼や唐津焼、萩焼。朝鮮出兵とはズレますが 楽焼も朝鮮人陶工?が始祖です。) それらの焼き物と日本六古窯(備前、丹波、瀬戸などなど)といわれる焼き物と 比較した時 日本的なものが見えてくるように考えます。 補足ですが日本六古窯は歴史は鎌倉時代までさかのぼり、朝鮮や中国の 影響を受けないで、日本の国内で成熟していったと言われる焼き物で 一般の人々が使用する器を作っていました。 僕の主観ですから的を射ているかどうかわかりませんが 朝鮮人陶工が始めた器の方が六古窯よりはるかに洗練されていたように 思います。イメージの話なので個々の作品をいっている訳ではありません。 ただし朝鮮人陶工の器と六古窯の器とは成り立ちが違うので一刀両断に してしまうのは乱暴なのです。簡単にいいますと朝鮮人陶工の器は為政者が 特別な目的のため 私的に造らせた器であり六古窯は日常生活で使われる為に 造られた器であるといえます。 現代人が考える程には当時としては陶工を連行してくることは乱暴な事では ないのかも知れませんが言葉も通じないであろう陶工をさらって来て 仕事をさせなければならなかった理由があったはずです。 まず理由の最初には日本にそういう器が無かったからでしょう。 朝鮮のような技術が日本に無かったから朝鮮人陶工を連行してきたと思うのです。 縄文の文化より土を焼く行為はあった訳ですからそういう方向の技術が 育まれなかったといえるのです。 また違う様式が珍重されたこともあるかと思います。 連行の背景に茶陶を抜きにしては考えられず侘茶(ワビチャ)という新様式に 対応する為、違う様式の器が求められたことがあると思うのです。 ですから朝鮮人陶工の器と六古窯を比較することで日本的な物がみえてくると 思うのです。 吉岡格史
陶芸の仕事のプロセスそれぞれで昔はこうはいかないだろうなあと 思うことは多いです。 現代社会の中で手軽な環境で出来る物と、手間をかけるしかなかった 環境で出来る物は おのずと 違う点があると思います。 その違いに一長一短はありそれが良い悪いというつもりはありません。 ただ昔は昔のしくみがあり、そのしくみが機能していたことに 不思議をかんじるのです。 焼き物には灰が欠かせない材料のひとつとしてあります。 現代に生きている私はお店で袋詰めにされた石灰を買って それに代えていますが 昔は(今現在でもこだわりのある人は灰を吟味します) 灰を手にいれなければなりませんでした。 ただ昔の燃料は薪炭しかなく 灰は今私が石灰を手にいれるより たやすく手に入ったと思われます。 ただ灰はそのまま長石という原料と混ぜ合わせ水にとけば すぐ使えるわけではなくて アク抜きという工程が前の段階にあるのです。 ですから僕も灰釉を調合する時には 灰を水にさらし、アクを抜いて使用しています。 ここで今の言葉でいう所のリサイクルのシステムとして 染物屋さんがでてきます。 染織をする場合 染料の定着材として灰のアク汁を使用します。 ですから染物屋さんでアク汁をとった後の灰(いうなれば産業廃棄物です)は 焼き物屋さんがそれを原料にして、釉原をつくるしくみがあった訳です。 特に染物屋さんも焼き物屋さんも生木の灰を上等としていた様なので 特別な場合は燃料から出来てくる灰ではなく、そのために 用意した灰を使用したと思われます。 昔のしくみがよかったとは多分いえなくて そのしくみが成り立つためには 生活の水準はずいぶん低いものになるでしょう。 不便をのぞむ人は多くはいないと思いますが しかし現代に生きている自分だからこそ、灰のかんぺきなまでの リサイクルに不思議をかんじ、創造神というのは本当はいるのかななどと 思い、心に残った話を書きました。 吉岡格史
現代に暮らす私たちにはごく普通のことなのですが 長い陶芸の歴史において白い焼き物を作る事は夢であったようです。 僕の多様する制作技法の一つに白化粧による掻き落としがありますが 白化粧を掻き落として紋様を入れるのは二義的な事で 本来は白い焼き物を作る為の行為だったようです。 そういう意味で、志野焼きは日本で初めての白い焼き物であります。 英語で磁器の事をチャイナともいわれるのは、中国で磁器が最初に 焼かれたからです。 その中国で発明された技法は西へ向かってマイセンになった訳です。 ドイツに技法が伝わり材料を探した所それまでドイツで、髪を洗うシャンプーとして 使われていた粘土が磁土だったそうです。 今、粘土を使用する化粧品などあるようですが歴史は古いようです。 東へは日本に製法が渡りました。文禄慶長の役の際、朝鮮人陶工を拉致してきて 九州の有田で生産がはじまりました。 有田で生産された磁器が伊万里の港から(だから、イマリ焼というのです) 遠くヨーロッパに向けて輸出されました。 白い焼き物のあこがれがいろいろな所に広がっていきその場所場所での 特徴的な発展をとげました。 僕にはその理由は分りませんがヨーロッパと中国と日本での 作られたものの違いはなんだろうかと思います。 吉岡格史
土を焼くと言う行為は、縄文時代との名が示すとおり1万年以上も前よりこの日本列島で休む事無く続けられてきました。縄文土器の特徴のひとつと言って良いと思われるなかに、人面の装飾と、 口縁部へ装飾のポイントを置くことが在ります。 一般に縄文時代より、弥生時代への移り変わりの時、渡来人と言われる人々が、この列島にやって来ました。ですから、縄文式土器と弥生式土器の違いは、単に生活様式の変化に伴う機能の変化だけでは無く、 作り手の背景の変化(宗教などの内面的な変化)と思うのです。そんなとき、数千年の時を隔ててリバイバルしたデザインがあるのです。 壷の口縁部に人面の細工をほどこした、いわゆる人面土器の中のひとつにそれはあります。 縄文土器の特徴のひとつに、人面の装飾と、口縁部へ装飾のポイントを置くことが在るとは先に述べたとうりです。 そう言う意味で、例にあげた弥生式土器はとても縄文的なデザインと思います。それは、日常的に使う器ではなくて、何か作り手の想いを感じさせる祭器のようなものだと思います。 僕は、なぜ、縄文的な要素の色濃い、弥生土器が作られたのかと考えます。 但し、デザインのリバイバル ということは特別な事ではないと言える例として、土器を制作するとき 貝塚の様な遺跡で、過去の土器片を見つけてきて、それをもとに新たに制作する事があるそうです (北米の原住民でそういうことがあったそうです)。 が、たとえそうであったとしても、それを選んだ主観は認められると思います。 もう一例として、土瓶の復活を挙げたいと思います。 土瓶は縄文晩期に、今使っている物と変わらない形態 が出来上がっていました。 それが時を隔てて、江戸時代に復活したそうです。これは、機能からくる形態の復活なのですが、 偶然の一致としてかたずけてしまえない何かを思うのです。 機能が似ているなら形態も似てくる事はあり得ることですが、要求される機能の一致にも 不思議を感じます。 僕は、ふたつの事例を考えるとき、一致をもたらした共通項を考えずにいられないのです。 そこに、遺伝子の繋がりがあるのか?日本の伝統としての流れはないか?わずか二例なので説得力に欠けますし(あまり正確な話でもないのです)、 遺伝子とか伝統とか大げさな言葉を選んでしまいましたが、何かそうなった訳がある様な気がします。そうさせたのは血なのか?そうなったのは日本列島の風土、気候なのか? 今、結論めいた事を記す事はできません。が、私が制作する上においても同じ事を考えるのです。連綿とこの列島で生活してきた一員として過去との係わり合いを思います。 吉岡 格史 吉岡格史略歴に戻る このページ上へ